当時、成人と呼ばれる二十歳を過ぎてからも大人になった実感はないままでした。結局今まで、大人になるってなんだろう、ということに明確な答えを出せていなかったと思います。そうかも? と思うことがあっても、確信にまで至らないといいますか。

だいぶ前、父親と話をしたことがあります。私は人生勝ち組だよ、と。周りの人に恵まれて、環境に恵まれて、それでいて、恵まれたそれらをきちんと受け取れる自分でいた。周りの力が全てではない、自分の力が全てではない。恵まれたことも確かだし、私がやってきたことも確かだと自負がある。それで今、ここにいる時点で私は勝ち組なのだ、と。
その時の父親はちょっとだけ驚いたように笑いながら「その年でそう言えるのは大したもんだ」と言われました。まだまだ父親に勝てた気はしませんが、それでもそんな父親にそう言わせたあの時の出来事はよく覚えています。

それから、義務と権利について。誰しもに義務があり、権利を持っている。だから権利を振りかざせばそれは、誰かの権利とぶつかるだろうね、と。また誰かにそうすべきだという義務を押し付けるなら、同じように誰かからも自分がすべき義務を押し付けられるだろうね、という話。
自分の権利にしか興味のない人はたくさんいるでしょう。それでも私は、そうでない人たちと共に生きていきたいと思います。だって私は、私の権利を尊重してほしいから。だから誰かの権利を尊重したい。私の義務を追い立てられたくはないから、誰かの義務も追い立てたくはない。
それでも譲ってばかりではいられないものです。だから人は折り合いをつけていくのでしょう。お互いに義務と権利を持っている。だから、互いに譲歩し、互いに折れて、互いに享受するのでしょう。それがきっと、誰かと生きていくということだから。

私は改めて、それが社会なのだと感じました。社会の中で生きるということは、そう仕組みの中で生きていくのはそういうものだと。たぶん、当たり前のことなんでしょう。それでも今になってようやく、その当たり前の事実が身に染みたような感覚がありました。
だから、ようやく私は自分が大人になったな、なんて感じたのです。もっとも、こんなことを言うと父親には「もう大人なんだぞ」なんて怒られてしまうんですが。
さらに私は、そういうことがわかる人たちと共に生きているのだな、という実体験も多くあります。そう思っているのは私だけではない、と思えることがどれだけ幸せな環境なのか。そういう人たちと同じ社会に生きていることがありがたく、それでいて、今私が生きているこの場所にたどり着けたことを誇らしくも感じました。

今日はそう成長や、幸福を実感できた嬉しい日でした。明日も良い日を過ごしていきたいです。