「....あっづい」
「ふふふ、咲ちゃん溶けちゃいそうだね」
「....」
貴子さんは、いつでも笑顔を絶やさない。
昔からわりとおっとり笑っているような人ではあったが、ここ最近は、静かに微笑む以外の彼女を見た覚えがない。
今日だって、うだるような暑さにへばっている私の隣で、まるで暑さなど感じていないかのような涼しげな笑みを浮かべている。
なんだか大人の余裕みたいなものも感じて、むむむ、と唸る。
というか、ちょっと、マジで。
「あああもう無理無理!熱中症になるって!」
「ふふ、ちょっと日陰で休んでいこうか」
「賛成!!」
その言葉を聞くや否や、我先にと木陰の射すベンチに走り寄り、へたり込む。
くすくすと笑いながら、貴子さんもゆったりとした足取りで隣に腰掛けた。
あー、やばい、涼しい。
「今日は誘ってくれてありがとう。楽しかったよ」
「んーん、こちらこそ急なお誘いだったのにありがとう。
映画観るの久しぶりだったし、良い息抜きになりました」
「ほんと、映画館なんていつぶりだろ?ずっと娯楽は我慢してたからなあ」
「受験生はそういうものだよ。でも今日は模擬試験を頑張ったので、先生から特別にご褒美でした」
「ははー、ありがたき幸せでございます貴子大先生さまー」
二人して一瞬黙り込み、同時に噴き出す。
「早く受験終わらないかなー。さっさと解放されて、夢のキャンパスライフを満喫したいよー」
「あと半年の辛抱だって」
「うええ....具体的な期間にげんなりしてきた....」
「大丈夫大丈夫、きっとあっという間だから」
そう励まされたが、本当に一日も早く勉強漬けの日々から解放されたいものだ。
「....半年か」
「ん?」
「半年経ったら、春からまた貴子さんの後輩だね」
「....受験に失敗しなければね?」
「ちょ、それ受験生には思いっきり禁句でしょ!」
まあ、優秀な貴子大先生につきっきりで勉強を教わっているので、落ちる気は更々無いのだが。
貴子さんも、そんな私の内心を分かっているのだろう。受験生に対する配慮が見えない。
全く、大した先生サマだ。
「大学生になったら、咲ちゃんは何がしたい?」
「んー、やっぱりサークル活動はしてみたいかなあ。如何にも大学生っぽいし」
「....たぶんかなりハードル上げちゃってると思うよそれ」
「ちょっと夢壊さないでよ。
他には、バイトもしたいよね。憧れますわ」
「自分でお金を稼ぐのは良い経験になるからね。咲ちゃんも家庭教師とかやってみたら?」
「いやいやいや、むりむりむり」
どんな質問も、馬鹿にしたり呆れるでもなく辛抱強く教えてくれる貴子さんとは違って、「そこはさっき教えたでしょー!?」と、想像上の教え子に腹を立てる自分が目に浮かぶ。
咲ちゃんは面倒見が良いから向いてると思うけどなー、と買い被ってくれること自体は嬉しいが、ちょっと被せ過ぎだ。
「あとは、気軽に旅行とか行きたいねー」
「好きな人と?」
「え、それ貴子さんが聞きます?」
そっかー、今も居ないのかー、とわざわざ口にしなくてもいい事実をご丁寧に呟く彼女。
生まれてこの方、色気も無ければ男ッ気も無く、恋人なんてものが居たためしが無いことをこの「近所のおねえさん」はよく知っている癖に。
「そういえば、そういう貴子さんはどうなのよ?」
「....え?なにが?」
「今の話の流れからしてどう考えても『好きな人』の話でしょ....」
気づけば何やらぼんやりとしていた貴子さんに、反撃を試みる。
が、大抵いつも上手くはぐらかされてしまうので駄目元ではあるが。
「....咲ちゃんは、誰かを本気で好きになったことはある?」
はぐらかされるどころか、アタックを決めたボールが休む間も無くド直球で撥ね返って来るとは予想だにしていなかった。
「....えーっと」
「あるの?」
「や、その、よくわかんないけど、たぶん無いかなー....」
「....そっか」
何がきっかけでエンジンが掛かったのかは分からないが、しどろもどろな私の答えを聞いた貴子さんは、一瞬の後にいつもの彼女に戻った。
しかし、今度はそんな反応を見てしまったこちらが気になる番だ。
「....貴子さんは、誰かを本気で好きになったことがあるの?」
恐る恐る、探るように訊いてみる。
なんだか、訊いてもいいのか、それとも訊いてはいけないことなのか、どちらにも取れて少し身構えながら。
「んー、そうだねえ....」
そこから答えが続くかと少し待ってみたが、はいともいいえとも言わない。貴子さんらしい。
と、ぽつりと言葉を洩らした。
「本当に好きになるとね、その人のしたこと、全部、許せちゃうものなんだよ」
「ぜんぶ?」
「そう、ぜーんぶ」
「どんなことでも?」
「どんなことでも」
「ええー、うっそだあー」
そんなの無理に決まっていると反論したが、「いつか分かるよ」と眼を細めて笑っている。
「私の好きな作家さんの小説に出てきた言葉なんだけどね、私も、初めてそれを読んだ時は全然理解できなかったよ」
「....江國香織?」
「そう、江國さん。よく分かったね」
「ま、そりゃあね」
どれだけの付き合いだと思っているのだ。
「なんで理解できるようになったの?」
続きが気になるので、話を進める。
「うーん、そうだなあ....」
「なに、話しづらいこと?」
それならば無理には聞かないが。
貴子さんのことなら何でも知りたいが、彼女を困らせるような真似はしたくない。
「いや、そういう訳じゃないよ」と、考え込むような表情を見せながらも即座に否定する。
「....一度、きっちり死んだから、かな?」
「し、しんだ?」
「うん」
....なんだそれ。
予想もしていなかった物騒な言葉が飛び出てきたことへの説明を視線で問うが、貴子さん本人も上手く言葉にできないようで、少しだけ眉間にしわを寄せている。
「....うん、そうだね。確かに一度、私は死んじゃったんだと思う」
と思えば、私を置き去りにして何やら一人で納得している。
待って待って、置いていかないでおねえさんや。
「えっと、貴子さんは元気だよね?」
「うん」
「今、私とお話している貴子さんは本物だよね?」
「うん」
「死んでないじゃん!」
「あはは、うん、そうだね」
あははじゃない。何も笑えない。面白くない。
そんな思いが、私の恨めしそうな視線から伝わったのか、「ごめんごめん」と笑いながら謝られた。
「多分ね、今ここに居る私は、幽霊みたいなものなんだよ」
「....幽霊?」
「うん、幽霊。
一度死んじゃってから、気がついたら肉体から離れて、魂だけになってたの」
「....はあ」
今日の貴子さんは、いつもに輪をかけてオカルト発言のオンパレードだ。
「えっと、つまり、貴子さんは一度死んで幽霊になっちゃったから、今まで現世で囚われていたことも気にならなくなった。
....ってことでいいのかな?」
「うーん、そうなの、かな?」
「いや疑問系で返されましても」
まあ、彼女の言葉をそのまま繋げれば、つまりそういうことらしい。
といっても、私はさっぱり理解できていないのだが。
理解、できていないのだが。
なんだろう、なんだか、悲しい。
「もうすぐ夏も終わりだねー」
「....」
「蝉、一生懸命に鳴いてるね」
突然湧いてきた感情の出どころが分からず、少し戸惑う。
ジイジイと鳴き続ける蝉の声がうるさくて、少しイライラした。
嫌な焦燥感に駆られる。何か、とても大切なことを見落としているような気がするのに、考えがまとまらない。
「蝉は成虫になってから七日間しか生きられない、ってよく聞くけど、本当なのかな?」
「....さあ、どうなんだろう」
「蝉から見た世界は、どんな風に映っているんだろうね。
きっと、目的も持たずに漂っている幽霊には思い出せない位、すごくきらきらしてるんだろうなあ」
そう、眩しそうに話す彼女の声と、そんな彼女の関心を一身に受けている蝉の声に、耳と思考を奪われる。
待て待て、今必死に考えてるんだから。お願いだから少しだけ黙って。
今、今を逃したら、私は何か大切なものを。
「....だから、咲ちゃんも許してね」
ぽつりと、七日目を迎えた朝の蝉が洩らした最後の一鳴きを、聞いたような気がした。
―あれから何年経っても、この日だけは、彼女との会話を鮮やかに思い出す。
「....やあ、一年ぶり、貴子さん」
話しかけても、目の前の石は何も喋らない。
返事がある訳もないことはちゃんと分かっているが、それでも、こうして彼女に会いに来ると訊きたいことが絶え間なく押し寄せてくる。
なぜ、誰にも言わずに一人で往ってしまったのか。
何が、彼女を駆り立てたのか。
いつからこうすることを心に決めていたのか。
あの日、私に話してくれたのは、ひょっとすると彼女なりに助けを求めていたのか。
あの頃、私自身気づいていなかった彼女への想いに、もしやひっそりと気づいていたのか。
「....本当に、ずるいなあ貴子さんは」
サアッ、と生温い風がゆるやかに頬を撫でていく。
幽霊でもいいから、会いたかった。
ちゃんとした答えなんて返ってこなくてもいいから、彼女の声が聞きたかった。
「貴子さんは、私にもいつか分かるよって言ってくれたけど。
私、今でも全然わかんないよ」
勝手なことばかり一方的に話して。
何もかも、自分の中だけで答えを決めてしまって。
そうして、あっという間に居なくなってしまった貴女を。
許せる訳が、ないじゃないか。
「....ていうか、許す許さないを選ばせてももらえなかったし」
彼女の前に、静かに腰を下ろす。
今日は、彼女にどうしても報告したいことがあるのだ。
「私ね、あれから調べてみたんだよ。
覚えてる?突然蝉の寿命の話なんかし出すから、あの時は何かと思ったけどさ」
その時のことを今一度思い出して、少しだけ笑う。
「蝉の寿命が七日間っていうのは、俗説なんだってさ。
蝉は木から直接樹液を吸うから、昔は飼育が難しくて。上手に飼育しても、七日位しか生きられなかったみたいだよ。
それがどうやら由来みたいだね。実際には、数週間から一ヶ月位生きられるんだって」
意外と根性あるよね、とそこまで話して、黙り込んだ。
が、酸素を吸い込んで、続ける。
「....蝉でも幽霊でも、どんな貴子さんでもいいけどさ。
私は、貴子さんが貴子さんだったから、きっと好きになれたんだよ」
少しだけ声が震えたが、それに気づかないふりをして勢いよく立ち上がる。
振り向かない。立ち止まらない。
きっと、どこかで貴女が見ていてくれているから。
幽霊になる訳にも、蝉のように生き急ぐ訳にもいかない。
「....またね」
ジジジ、と蝉が鳴いた。