「晴れた日は巨大仏を見に」を読み終わった。
この本は作者の宮田さんが日本中の「巨大な仏像」を見に行くルポタージュだ。…そのまんまやんけ!

宮田さんはその辺のビルやマンションよりもデカい仏像が唐突に立っている光景の「異様さ」が大好きで、とりわけそれらに近づいている際に「ぬっ」と現れる瞬間の奇妙な感覚を味わいたいがため巨大仏をめぐる。

わかる!その表しがたい奇妙な感覚!!なんかもうウルトラマンの世界というか恐怖感というか「唐突になんだよ!」っていう愉快さとか快感とか、私の場合ひとことで言うと「ぞわぞわする」だろうか。
私が記憶にある初めての巨大仏遭遇は福島県会津の慈母大観音だろうか。いきなり山の上に白いヤツおる…みたいな光景になり、どんなに離れてもまるで観音像が追いかけてくるかのように視界から消えないから、不気味っつうかなんやアレ(笑)!!みたいな笑いと恐怖の両方のスイッチが入った感じだったわ。ちなみにこの本にも載っている。

宮田さんは各所の仏像を巡り、ばかばかしいレポートをしつつ真面目な分析もしてくる。でもだいたいがばかばかしいレポートなのでとにかく面白い。淡路島の大観音を見たときは
「海辺から見ると、途中さえぎるものもなく、突然そこに立っている大観音の唐突さがよくわかる。なんでこんな場所にこんなものが立っているのか、その必然性がまったく理解不能なところが、この風景の魅力である。」とか言っているのに、「巨大仏の”ぬっ”とした感じのさらに奥に殺伐とした手触りが隠れている気がする。」と坂口安吾のエッセイを引用しながら真面目に分析しだすのだ。
巨大仏の感覚は「深い山の中で一夜を明かすときや、宇宙の果てを想像するとき、あるいは自分が死んだ後の世の中について思うときなどに、強く心の中に湧き上がる人間の力ではどうしようもない圧倒的な孤独のようなものであり、言い換えれば、この世界があること自体の怖さ、理由もわからないままにこの世界が厳然と存在し、そこにどこから来たのかもわからない自分がいる、という怖さ、それを人工的に少しだけ感じさせるのが巨大仏なのではないか。」と分析している。
すげえ!なんとなく、わかる。その感じ。もや〜っと感じている私の「ぞわぞわする」気持ちの根源をわかりやすく言語化して説明してくださった…!宮田さんすごい…!!と思って次のページをめくると
「のんきな旅の話をしていたつもりが、なんだか面妖な話になった。きっと本当に人を惹きつけるものには、そういった不気味さや気持ち悪さが混じってたりするものなのだろう。香水にウンコ成分が混じっているというのもよく聞く話である。
…宮田さん!!……(笑)!!
宝石のようなおもしろ作家さんを見つけた!

他にも久留米大観音に行った際、観音の胎内にある《孝養洞窟(こうようどうくつ)》を見たとき、
「親孝行を啓蒙するための壁画!なんと面倒くさそうなどうでもいい壁画であろうか。」と言いつつその啓蒙話がおもしろいと披露している。まずは
「就寝中の父母が蚊に食われるのを見た少年が、どうにかしてこれを防ぎたいと、自分が裸になって父母の枕元で蚊に血を吸わせました。あっぱれあっぱれ。
蚊取り線香買えよ!とツッこみそうになった。
親孝行というには話がとてもせこい。だいたい息子に枕元で裸で座られている親も、おちおち寝ていられないのではないか。」
つぎに
「老母と妻と三歳の子供と四人暮らしだった男がいた。貧しくて老母が自分の食べ物を子供に与えているのを見て、「子供はまた生まれてくることもあろうが、母は再び得ることができない」と考え、この子を埋めようと夫婦で話し合って、穴を掘った。すると黄金が出てきたので、子供も埋めなくて済み、ますます親孝行に励んだのでした、めでたしめでたし。
って、いいのか!
「子供はまた生まれてくることもあろうが、母は再び得ることはできない」からって、子供埋めるか、ふつう。親孝行というより、殺人ではないか。
《孝養洞窟》おそるべし。」
大笑い!!!これは中国の孝行談「二十四孝」をモチーフにしたものらしい。なるほどー!!このエピソードを聞いて昔の中国での考え方に納得いくわー。
三国志の長坂坡での劉備と趙雲のエピソードまんまやんけ!!劉備の嫡子阿斗を救い、敵中突破した趙雲に、劉備は阿斗をぶん投げて「子どもなんかよりお前のような家臣は二度と得られぬ!!」と趙雲の手を取りむせび泣いたというエピソードまんまやん(笑)!!

しかし、いい本を見つけた。いい作家に出会えたなぁ。ちなみに新潟県の国道沿いにある巨大親鸞像も載っている。あれこそホントに唐突に”ぬっ”っと現れておののく(笑)。