だからといって、使い方として「信じ込んで」踏み込むというのは、間違っているのでしょうね。
「信じたい」も危険
「信じる」程度で踏みとどまり、更には、いつも疑いを持つくらいのアプローチでかからなければいけない...。らしい。
数学を研究することとは別のセンスで、倫理観を持たないといけない。
物理学の世界はどう?
例えば原爆
核分裂を自然現象として記すことは、とてもおもしろいし、興味深いし、重要です...。
ところが、それを兵器に使ったとき
その瞬間に、物理学は、悪魔になってしまいました。
わたしの美意識は数学や工学の中に身を置いた時に大いに存在する。けれど、そんな、滑稽なナルシシズムとは違った、道徳や人としての倫理観が必要になるのでしょう。
あ...。
必要になるということは、最初は道徳観を持っていなかったのかな?
原爆のことがあったからでしょうか?...物理学の人は、そういうものをちゃんと意識していて、社会と関わるとき、天使にも悪魔にもなるかも知れない、物理学の社会的責任について交わす公的なセッションのようなものまであるくらいに。
哲学者も、カッコいい。
そういう道徳的認識という意識が、数学者には薄いような気がします。
わたしも、きっと。
わたしの言い訳。
物理学は、論理論的に必ずしも正しいことが示せないとしても、自然に潜む現象さえ捕らえてしまえば、それで理論が構築できて自然の本質が理解できる。
哲学では、ライプニッツの「モナドロジー」という訳のわからない著作に、数学でいうカオスやフラクタルが見事に表現されていて、その表現の美しさに、わたしは圧倒されてしまった。
哲学者は、やっぱりカッコいいですね。
けれど、数学は、論理の飛躍というものが許されない。論理的な手段に従って...真理を見つけていかなくてはならないのです。
わたしの好きな数学
なんて滑稽で、格好悪いのでしょう!