そういえばさ、このブログから銀魂的なものが消えて久しいんですが、同人サイトとして大丈夫っスかね(今更かい)。まあ、ここを読んでるってことは大丈夫ってことだろ?ユカリも今は色々あるしなァ。なかなか萌えまで生み出せる余裕もないからさ、つーことでよろしく(オイ適当)。
昨日は近くの繁華街まで遊びに行きました。妹から誘われて行って来たんだけども、街中が正常に機能していて凄くホッとした。マックもやっているし、商業施設だってやってるもんな。道行く人にも笑顔が溢れてる。そういうのを目の当たりにするとマジ安心する。でもせっかく出掛けても旦那の服とか、旦那が好きな地元のお菓子くらいしか買わなかったのが何だかなァ。服くらい買わなきゃやってられんと思うけど、どうにもな。だがしかし、実家でたらふく美味しいもの(母の料理)を食べられるのでそんなに物欲もないんだよね。食欲が満たされるからだろうか。
それで今はお彼岸だからさ、昨日のうちに友達の墓参りに行ったよ。彼女の命日も近いし。お寺さんも私の実家の墓がある寺と一緒なので、余裕で歩いて墓地まで行けます。
読んでると分かると思うんだが、彼女の家はユカリの実家からめちゃくちゃ近いんだよね。幼なじみだしさ。独身の頃は基本お盆と命日に墓参りしてたけど、引っ越ししてからはお盆くらいしか行けなかったから、ちょっと心がすっきりした。墓参りは大事さ。こっちの世界にのこされたもんが、心の整理をする為でもある。すげー可愛い子だった彼女の好きなピンクで揃えた花束を、墓前に供えてきました。
いつの間にかユカリは彼女より六つも年上になっちゃったなァ。本当に時の流れは早いよね。どうりでユカリも結婚するし、同じ幼なじみでも子供が二人も居る友達も居る筈さ。
彼女が亡くなった時は本当に悲しくて辛くてやるせなくて、でも何もできない自分に憤って、どうしようもなかった。幼稚園から小学校、中学、高校とずっと一緒に過ごした友達を失うというのは、文字通り自分の体の一部をなくしたような気持ちというか、胸にぽっかりと穴が空いたような気持ちになりますね。それこそさ、ガキの頃からの付き合いだから好きな服とかアーティストとかも一緒だったし、甘え上手な子だったから、四六時中べったりして姉妹みたく過ごしてたもん。同い年だけど、何か放っておけないというかね。可愛い子になつかれるのって、同性でも嬉しいもんだからな。特にユカリだしな(だろうな)。
だからですね、当時はそういう友人を失ったという事実が信じられなかった。うちのめされた。どうしようもない虚脱感に。一種の心神耗弱というの?
彼女が亡くなった時に、ユカリは、
「ああ、死ってこんなに間近なんだ」
って確かに思った筈なのに、六年という年月が経つうちにすっかり忘れてしまっていたみたいだ。六年という歳月の中で新しく友達になった子も当然いるし、旦那とも出会い結婚し、昔よりずっとずっと大切なものが増えている筈なのにな。そう考えると、不思議だね。
だからさ、思うんだけど、人間てとても強いよ。自分らが思う以上に、強くできてる。彼女を亡くした時は真面目にふさぎ込んでもう立ち直れねーくらいに思ったけど、今はこうしてバカばっかりしてるもんな。でもまた大切な誰かを失ったら今度はどうなってしまうんだろう、という気持ちは震災からずっとあるよ。怖いよ、それは。すげー怖いよ。またあんな思いをするなんて、絶対に嫌だ。絶対嫌だ。でも人間どうなるかなんて、分からないからなァ。
でも“忘れる”って、とても大事な頭の機能だよ。亡くした人をずっと大切に思う気持ちを捨てるってことじゃないよ。悲しみや切なさを乗り越えて行く、ということは大事。人間はそういうネガティブな感情を持ち続けていられるようにはできてないもん。それはやはり、自分が生きていきやすいようにさ。
でもそれでいいんだよ、って今は思うよ。当時のユカリは彼女を亡くした悲しみが癒されていくことに罪悪感を感じていたけど、今は当時の自分に、
『それでいいんだよ』
って言ってやりたい。そうやってのこされた人間が前を向くことが、先に逝ってしまった人の弔いになるんじゃねーのかなァと。だからユカリは今自分の周りにいる大切な人々を、自分にできる限り精一杯大切にしていく。そうやってまた、育んでいく。彼女と育んだ何かみたいに、一つずつでも積み重ねていきたいと思う。
だからさ、どこにでも希望はある。本当に、人が生きている限りどこにでも希望はあるよ。