朝から物凄い重たい話を投下していきたいと思います。『拾いもの話・弐の5』の中途半端に終わったところから続いているので、まだ読まれていない方はそちらからどうぞ。
では、兄弟の過去から!
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未だに信じ難い気持ちで、高杉は己の顔を触った。左目を覆う包帯は手厚く巻かれていて、その下にある眼球の感触はない。だが、本能的に高杉は気付いていた。眼球の感触がないのは、厚く巻かれた包帯の為ではない。左目が全く見えない事も、その感触を感じられない事も、全て。
もうそこに、『何も存在していない』からだ。
「…ごめんなさい」
ふと横を向くと、まだ涙を零したままの新八と目があった。涙ぐむ新八が繰り返す『ごめんなさい』の言葉から、自分は新八を庇った為に左目を失ったのだと知った。
高杉がその時感じていたのは、左目を失った絶望でも、己の左目と引き換えに健康な姿を晒している新八への憎しみでもなかった。そのどちらでもなく、ただ、高杉は心底驚いていた。
自分が新八を庇ったこと。
自分が左目を差し出してまで、新八を守ったこと。
咄嗟のことながら、無意識にそうした自分の行動に、高杉は心底驚いていたのである。
―何故なんだ?
高杉にとって新八は、偽りではあるが自分の“家族”を瓦解させた女の息子だ。憎くて憎くて堪らなかった筈なのに、新八が居なければとすら願っていた筈なのに、何故自分はそんな彼を庇った?
どう考えても、その時の高杉には皆目分からなかった。
新八を庇って左目を失明したことを、高杉の母は散々に言い散らしていた。新八の母親や新八にまで悪態をつく様子に、高杉はやはり彼女を軽蔑した。
『私に似て綺麗な顔なのに、あんな子を庇って失明するなんて。本当にバカな子』
母がそう言って高杉が失明した事を嘆く度に、高杉の心はどんどん冷えていった。絶対零度の心の中で、恐ろしいくらいに母との距離が離れていく事を知っていた。
母は自分の左目が心配な訳ではない。ただ、自分に似た顔の造形を気にしていただけだから。
結局、母にとっては高杉もまた“道具”だったのかもしれない。父にとって母が“道具“だったように。母にとっての高杉は父に取り入る為の道具でこそあれ、”我が子“ではなかった。確かに血を分けた母子だったのに、母はそうは思っていなかった。
高杉はそんな彼女を侮蔑し、哀れな女と心から蔑んだ。自分は彼女とは違う。自分は自分だ。誰でもない、自分の意思で新八を庇って左目を失ったのなら、それを受け入れて生きていく。
だが、高杉の本心は違うのかもしれない。高杉の失明の原因となったのは、新八を庇った為だ。言わば、何ら請け負うべきではなかった傷。
その罪の意識を、新八に被せる事。
”罪“という足枷で、新八を括る事。
自分だけに繋ぎ留めておく事。
新八の性格では、きっと死ぬまで高杉の左目を気に病むだろう。高杉の事を考えずにはいられないだろう。それはつまり、新八の心に自分はずっと居られるという定住権だ。
それらがひどく魅力的であり、甘美だった事を高杉は深層心理下では気付いていたのかもしれない。
それを証明するように、あの事件が起こってから新八は以前よりも高杉の後をついて回るようになった。高杉の母が出て行っても、新八の母が亡くなっても、それは変わらなかった。ただの居候から義理の弟という身分になっても、新八はいつでも高杉の隣に居た。いつもいつも、眼鏡の奥の瞳を少し緩めて、尊敬と親愛の眼差しで高杉を見上げていた。
それなのに、今、新八は居ない。
否、自分の意思で高杉の側を『離れた』のだ。他の誰でもない、新八自身の意思で。
その事実に、高杉は血が滲む程強く己の手を握りしめた。
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ふう。ちょっと癪だが、晋助は本当にドシリアスなのが似合う(癪なんかい)。
次は坂田さん宅からです。
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「ただいまー…っと」
ガチャリと玄関の扉を開けるなり、銀時はひょいと首を伸ばした。玄関先の明かりのスイッチを押しつつ、部屋の中を窺う。新八は確かに居る筈なのだが屋内は薄暗く、いつものように明かりが灯っていなかった。
「新八?」
行儀悪く靴をすり合わせて脱ぎ、部屋へ上がる。カチリと照明スイッチを押して辺りを見渡すと、当の新八は部屋の壁にもたれるようにして眠っていた。
テーブルの上には既に出来上がった夕食の品々が並んでいる。どうやら銀時が帰るより先に料理が完成してしまい、時間を持て余して居眠りをしたといったところだろう。
銀時は新八を起こさないようにそっと部屋を横切り、クローゼットへコートをしまった。扉の開閉音にも慎重に注意を払う。
今日で銀時と新八が知り合ってからもう四日目になる。昨日桂から調べてもらった新八の記憶喪失の診断結果を、銀時はついに彼へは教えなかった。
厳密に言えば、脳に異常がある訳ではない事や身体検査の結果などは教えたが、肝心の記憶喪失を引き起こした“強いショック”が新八の身に連続的にあったことについては口をつぐんでいた。むしろ、言えなかった。
記憶喪失は新八の心が摩耗し、疲弊した結果の事態である事。
それを引き起こした出来事は、新八が記憶を取り戻すと同時に、間違いなく彼の脳裏に蘇る事。
それらの事をどうしても言えぬまま、銀時は今日を迎えていた。
しかし、言わない事が少年の為になるのだろうか。これは自分のエゴではないのか。いきなり新八の記憶が戻る可能性だとて十分有り得るのである。だが退いても進んでも、それはどちらも新八にとっては等しく険しい道になるに違いなかった。
いつまでも堂々巡りを繰り返す思考を追い払う為に軽く頭を振り、銀時は新八の側に屈んだ。少年は壁にもたれて、少し俯き加減に眠っている。その事実に、銀時はハッと気付く事があった。
確か、新八は一人では眠ることが出来なかった筈だ。
彼は一人で眠る程に回復したのだろうか?
疑問に思いつつも銀時が新八の肩に手をかけようとした、その時である。
新八の頬を、一筋の涙が伝った。
一瞬、新八は起きているのかと驚くが、確かに彼は眠っている。それなのに、一粒雫を零した後は、まるでせきを切ったかのように新八の瞳から涙は溢れ続けた。重力のままに滴った涙が、ぽた、と床に落ちて弾ける。銀時が初めて見た少年の涙だった。
その突然の出来事に、彼は一瞬何も考えられなくなってしまった。
だが、その瞬間銀時は確かに聞いたのである。
「兄さん…」
新八が呟いた声。ごく小さな声ながら、新八は確かにそう呟いていた。
「…新八、おい」
涙を流す新八に一瞬呆気に取られたものの、彼の尋常ならざる様子に銀時は軽く新八を揺すった。両手を肩に掛けて、少年の細い肩を掴む。
しかしその刹那、新八は銀時にしがみついてきた。
「うわっ!」
意識していなかった重みに尻餅をつきつつ、新八を抱き止める。少年は震えていた。
「兄さん…、」
今度こそはっきりと新八の声が銀時の耳に入った。彼は家族の夢をみているのだろうか。
―…泣きながら?
ふと銀時に疑問が芽生える。だが新八は確かに“兄”の事を口にしている。
ぎゅっと背中に回された腕の感触を感じ、銀時も恐る恐る新八の背中に腕を回した。何故か今、無性にそうしたかった。同情でも何でもなく、銀時はただ彼を包みたかった。少年を抱きしめて、震える背中をそっと撫でる。新八はまだ泣いていた。
「おい…新八」
再び軽く揺すると、新八はようやく目を覚ました。
「…銀さん?…何で?」
起きて早々何故銀時の腕の中に居るのかがさっぱり分からない様子の新八が、困ったように眉根を寄せる。きょとんと目を見開いた新八の顔を見ると、何の夢をみていたかは元より、泣いていた事すら分からないようだった。それに軽く咳ばらいし、銀時はばつが悪そうに腕を離した。
「寝ぼけてんじゃねーぞ。何か夢でもみてたんだろ?起こそうと思ったら急にしがみついてきた」
こうなるに至った経緯をかい摘まんで説明する。しかし、新八の口から出た『兄さん』という言葉は伏せておいた。何故かは分からないが、銀時は言い出せなかった。
「…夢?」
銀時の言葉を受けて、新八が考えこむ。だが、やはり夢の記憶は一切残ってないようだった。思い出せない自分に苛立つのか、少年がぎゅっと拳を握る。
「思い出せません。さっきまでみてた夢も、全部、何もかも。…僕が何なのかさえ」
言うなり、またじわりと新八の目に涙が滲む。悔しいのか辛いのか、恐らくはそのどちらもなのだろうが、新八は再び大粒の涙をぽろぽろと零した。拭っても拭っても、涙は収まらないようだった。
「…怖いんです。僕、自分の過去が一切分からない。どこで何をしていたか、誰と何をしていたか、全部分からない。ここに、ぽっかり隙間があるみたいで」
搾り出すように呟き、新八が自分の胸に手を当てる。
「何もない。ここに空いた穴がどんなに大きいかも、何が僕を包んでいたかも、全然分からないんです」
話し終わるなり、新八の双眸から涙が溢れて零れ落ちていく。その胸に当てた指先も、まだ頼りないその背中も、彼の体は細かく震えていた。
『何もない』。
それは魂の慟哭だった。
記憶という人間のよりどころを失った少年は、どれ程に苦悩し、どれ程怖かったのだろう。考えるより先に、銀時はまた新八の体を抱いた。びくりと新八の背中が揺れる。
「…何でそう言わねーんだよ。『怖い』、『嫌だ』って、何で今まで黙ってんだよ。アホみてェに黙ってても分かんねーだろうが。辛い時は泣くんだよ。…人間はそういう風にできてんだ」
一気に喋り、銀時が新八の顔を覗き込む。少年はぼろぼろと涙を流して、銀時の肩にぎゅっと顔を押し付けた。震える腕を男の背中に回す。
「銀さん…僕、怖いです。怖くて、怖くて、堪らないです。僕が誰なのか、何なのかを知りたい。でも思い出す事も怖い。どうしようもなく怖い。…すみません」
涙と嗚咽に遮られながら、新八がぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。思い出せない歯痒さと、思い出す苦しみ。そのどちらにも苛まれて、少年は記憶の海を漂っていた。誰にも頼れず、たった一人で。
銀時は彼の頭をそっと撫でた。
「謝んなよ。記憶放り出しちまって怖くない奴なんざいねェ。…お前は一人じゃねーよ」
少年の背中はまだ狭く、銀時の腕にすっぽりと収まってしまうサイズである。だが、そこに背負ったものの重さは計り知れないものがあった。
新八の頭を再び撫でると、彼は涙で赤く染まった瞳を銀時へと向けた。
「…銀さん」
指先の感触に少しだけ安堵の吐息を漏らし、新八が微かに微笑む。それに軽く笑い返し、銀時は緩やかに新八の髪を梳いた。心地好いのか、新八が僅かに瞳を細める。
「一人で何でもかんでも解決できると思うなよ。…ガキはガキらしくしてろっつーの」
ぶっきらぼうな言い草とは裏腹に、ひどく優しく自分の体を抱く銀時に少年が一つ頷く。もう涙は出ないのか、彼は眼鏡を外してごしごしと目を擦っていた。
だが到底新八を放す気にはなれず、回した腕にぎゅっと力を込めたまま、銀時はいつまでもそうしていた。
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マジに何かが芽生えつつある銀新でした。めちゃくちゃピュアなのも銀新は俄然ときめきますな。
再び続きます!