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恋と風邪の見分け方

優香に処方された薬を嫌々だが飲み続け、三日後には私の体調はすこぶる良くなっていた。これが優香から処方されたものだというのは釈然としないが、病院に行くのは面倒くさいと言うか、不細工な医者に触られたくなかったからだ。医者が必ずしも不細工と決まったわけではないが、確率的な問題であって、決して明の思いやりを無駄にしたくないとかそんなものではない。
だって、私はこれから明を振りに行くのだから。
指定した時間からはもう数分経っていたが、私はのんびりとスタバのフラペチーノを飲む。冬の冷たい物は、なぜか心を踊らせる。飲み込むペースが遅いのは、フラペチーノのが冷たいせいであって、気乗りしていないからではない。何が気乗りしないか、なんて私には関係なくて知らないことだ。
最後の一口を飲み干し、私は思い腰を漸くあげた。

駅から数分歩き、少し路地に入った場所にあるカフェ。そこが私が指定した場所だ。私の中では別名『縁切りカフェ』となっている。静かなその場所は、寡黙なマスターのおかげが何かか、振るのに最適な場所だった。声を荒上げても、誰も気に留めない。私が度々使っているせいか、数少ない常連客も何も言わない。そんな場所だった。
カランカランとベルを鳴らし、カフェに入ると、窓際に明が、座りながらコーヒーを飲んでいた。
赤い髪が、窓から差し込む光でオレンジ色に見える。長い髪は背中に流れていて、黒いコートとのコントラストが目に映える。琥珀色の瞳が一瞬揺れたかと思うと、此方を捉え、明はヘニャリと笑って此方に手を振った。
「梟さん」
ゆるりと細められた目には穏やかさしかなく、私はなぜか居心地の悪さを感じた。
「コーヒー一つ。熱いのを」
そうマスターに告げ、明の目の前の席に座る。
「梟さんから誘ってくれるなんて珍しいね。嬉しいよ」
「話が、あるからね〜」
「話?どんな話?」
マスターがカップを私の前に置く。砂糖とミルクを適当に入れ、私は一口つけてから、
「別れて欲しいの。て言うか別れる」
と簡潔に言った。
自分で放った言葉なのに、何故か私の胸が痛んだ。キリキリと締め付けられるような痛み。それがどこからくる感情なのかは分からなかったが、明と離れればこんな感情ともおさらばだ。今まで、明のせいで何度苦しかったか分からない。苦しいのは好きじゃない。何より、苦しんでいる自分が嫌いだから。
明から、応えはなかった。視線を下げているから明の表情は分からない。私はただただカップを見つめ続けた。
「梟さん」
明が囁くように言葉を紡ぐ。名前を呼ばれただけなのに、私はなぜか泣きたくなってしまい、ぐっとカップを持つ手に力を込める。
「……知ってた。そうじゃないかな、って思ってた」
「え……?」
思わぬ言葉に視線を上げる。目に映った明の表情はとても穏やかで、切なくて、それでも笑みを浮かべていた。
「退屈だったろ、俺との時間」
「な、んで……」
「いつか別れる、って言われるんじゃないかなーって、それは思ってたんだ。豪華なレストランじゃない、普通の、俺が作った料理。プレゼントはそれだけ。梟さんモテるし、他にも男がいるの知ってたから、飽きられるんだろうなーって」
でも、いつも溢れるくらいに梟さんを思って作ってたんだ。
そう言いながら明は笑った。
「なんで笑うの〜……?」
「……嬉しかったから」
「嬉しかった……?なにそれ。あんた今振られたんだよ?なんで笑ってんの。いいように遊ばれて、あんたは悔しくないの……!?」
「悔しくないよ。梟さんこそ、なんで……なんで泣きそうな顔してんだよ」
「え……?」
ポタリ、雫が頬を伝った。
明は相変わらず儚く笑ったまま、私の涙を拭って、もう片方の手で私を撫でた。
「女の子の涙は、ほんと、胸が痛くなる。……なんで、梟さんが泣いてるんだよ、本当に」
「し、しらな……」
「まるで梟さんが振られた方みたいじゃん。何が悲しいの?」
「しらな、い……」
「自分の事だろ?」
「やめて……」
「逃げても何にもならないよ。俺が悔しがらないのが梟さんのプライドを傷つけたのか?」
「そんなの……」
分からない。全然分からない。なんで泣いているのか、なんでこんなにも明という存在は私を苦しめるのか、全然分からない。
「風邪、治ってないのかな。……ごめん。プライド傷つけるようなこと、俺、もっと言うかも」
「へ……?」
「俺、梟さんが俺のこと捨てても、俺はずっと梟さんを好きでいるから。……それを言いたくて、今日来たんだ。許してくれる?」
「なにそれ……っ、私、捨てようとしてるんだよ……?」
「それでも。苦しくても寂しくても、俺、どうしようもないくらい梟さんのことが好きなんだ」
「苦しい……?」
私と同じだ。どうしようもないくらい苦しくて、でも私は逃げることしか考えていないのに。なんで明はこんなに強いんだろう。
明はカタンと椅子から立ち上がり、私の横に跪いた。
ポケットから青色の箱を取り出し、丁寧に剥がすのが億劫なのか、ビリビリと破いて、私の手のひらに何かを握らせた。
「クリスマスプレゼント。遅くなったけど。いらなかったら売っちゃって。渡せるだけで嬉しいから」
そう言って明はマスターに万札を私て出て行った。迷惑料。そう言って。
カランカランとベルが鳴るのを茫然と聞きながら、私はそっと手を開いた。手のひらの中には、雫型のサファイアの石がついたネックレス。それと、握ってぐしゃぐしゃになったクリスマスカード。
妙に緊張しながらそれを裏返すと、こんな文面が書かれていた。
『メリークリスマス、梟さん
 本当は、当日まで指輪にするか悩んだけど
 指輪はやっぱり特別な日に渡したくて
 いつか梟さんが俺に飽きる日まで
 俺はずっと、これからもずっと
 梟さんの事が大好きです』
「なに、これ……」
どこまでも自己中心的で、思いを吐き出すだけのメッセージカード。
だけど、どこまでも一途に私なんかを思っていて。捨てられる覚悟で過ごしていた日々は、明にとって何だったのだろうか。
「馬鹿らしい〜……ほんっっとうに馬鹿らしい!」
ガタリと椅子を蹴倒し、カフェを後にする。
遠くの方に明の赤い髪が見えて、私は叫んだ。
「明!」
びくりと明の足が止まる。
私は大股でズカズカと明に歩み寄り、無理やり明を此方に向かせた。
「きょう、さん……?」
「プレゼント」
「へ?」
「ネックレスなんかじゃ足りないんだけど〜?」
「え、あの、ごめん……?えと、俺はどうすれば……」
「再来年、私は高校卒業するわ」
「えと、梟さん十六歳だから……そうなるね」
「その時、予約よ」
「……何を?」
「指輪。左手薬指につけるやつ」
「…………………へ?」
ボッと明の顔が赤くなる。だけど私には確信があった。今の私の方がもっと赤い自信が。
「それまで精々私を苦しめることね」
そう言って、私は明の唇を無理やり奪った。
思えば、何も手を出してこなかった明との初めてのキスだった。
風邪のようにたちの悪い明なんか、私の物で十分なんだから。







あとがき
難産でした。
書いていてじたばたしていました。
最後梟ちゃんが暴走して、「おいおい大丈夫か本当に」と思いながら書いていました。
これで今年のクリスマス小説は終わりです。
また現代パロディをすることがあれば、この二人の今後があるかも……?いや、ない方がいいのかも。
相変わらずのタイトル詐欺でしたすみません。
タイトルは時の間でキス様よりお借りしました。

恋と風邪の見分け方

話を聞けば簡単なことだった。
優香と斎は医者と看護士で明の友人。騙したのは、友人を弄ぶ私への悪戯心というなんとも友人思いのゲス達だった。
「ほんっっっっっとうに、こほ、悪趣味〜」
「あっくんの友人がマトモなわけないでしょー?はい、口開けて」
優香は医者らしく、ライトとヘラのような物を持って私に微笑んだ。
小さな反抗心で口を噤むと、優香は、
「口開けないと治らないよ?」
と言うが、見た目は良いにしろ中身が糞な女の言うとおりにする義理はない。
「んー、困ったわ。この子受診拒否しちゃってる。私怖いお姉さんじゃないわよ?」
そんな事を言われても、拒否は拒否だ。断固拒否だ。
「あ、じゃあお話ししましょー。私たちね、明君のダッチワイフなの」
ダッチワイフね、ダッチワイフ……
「ダッチワイフ!?」
「隙あり」
「あがっ!?」
いつの間にか後ろに回り込んでいた斎に顎を固定される。指を縦三本奥歯に挟むという荒技だ。
何をするんだと思いっきり顎を閉じようとするが、斎は動じる様子はない。寧ろ優香が診察しやすいように顔の向きを変えられた。
「あーあ、見事なまでに喉真っ赤っか。腫れも酷いわね」
ヘラみたいなもので舌を抑えられ、ライトでのぞき込まれる。優香の動きは如何にも手慣れていて、色んな角度で喉を観察された。
「あががっ!」
「あ、因みにダッチワイフってのは嘘よ?私斎以外は女の子しか駄目だし」
「!?」
いきなり身の危険を感じる発言が飛んできたんだけど。
「あ、大丈夫わよ?あなた、私の好みじゃないし。可愛い顔をしているとは思うけど、流石に未成年に手を出す勇気はないわ」
それはつまり、成人していたら可能性あったのか。いや、こんな女のことなんて知らないが。
「はい、喉はいいわよ。次、お腹出して。あ、斎は見ちゃダメよ」
「わかってら。あー、こいつ本当にじゃじゃ馬だな。指思いっきり噛まれた」
「はいはい、ご苦労様」
「……」
優香は鞄から聴診器を取り出し、耳にかける。
もう抵抗するのは無意味に思えてきた。
冷たい聴診器を疎ましく思いながら、私は尋ねた。
「あんた達、なんでここまでするわけ」
「ここまでって?」
「いくらお友達だからって……あんたたち恋人でしょ〜?なんでわざわざクリスマスにこんな所まで来てるの〜意味分かんない〜……」
「理由なんて、あなたが言った通り、お友達だからよ。もう一つ言うなら、玄関での私たちの言葉、聞いてたのよね。だったら話は早いわ。……あなたとあっくんのデートが終わった後ね、私たち、三人であっくんを慰める会をする予定だったの」
「……慰める会?」
「そ。クリスマスの昼間。しかも二時間だけ、しかも予定は他にも沢山でデート三昧、なーんて、あっくん可哀想じゃない」
私と斎は夜あいていればいいんだしね、大人だし。と優香はどこか寂しそうに言った。
「……あんなゴツいおっさんなんて、女子高生とデート出来るだけで幸せじゃない〜?」
「かもしれないわ。あ、息止めて。……うん、もういいわよ。幸せの尺度なんて、人それぞれよ。あっくんは慰める会なんていらない、俺は充分幸せだからー、なんて言ってたけどね……泣くのよ、あっくん。酔いつぶれた時だけど、殴られても、悪口を言われても、……家族に何をされても、それでも泣かないあっくんがね、あなたのせいだけで泣くのよ。悔しい、って」
「……明が?」
「そうよ。はい、呼吸も心音も問題なし」
「それってどういう……」
その問いに優香は応えなかった。ただテキパキと私の服を整え、ベッドに導き、横たえさせられた。
「……意味分かんない〜」
「あら、あなたの脳みそはお飾りかしら?……簡単なことよ」
「自分があしらわれて悔しいって泣くなんて、子供っぽいだけじゃない〜」
「……そう捉えるのか、このメスガキ」
「はぁ〜!?」
「こらこら斎。病人を興奮させてどうするのよ」
優香はそうたしなめるが、斎は沸点に達しているのか、ドカリとベッドに片足を載せ、ドスのきいた声で叫んだ。
「テメェが他の男にも手を出さねえといけない位、金にも愛情にも飢えているのに、満たす事が出来ねえって悔しく感じてんだよ明は!なのになんだ、コイツは!自分のことしか考えていねえ!お前なんて、糞以外だ!」
「はぁ!?なんであんたに糞以外なんて言われないといけないわけ〜!?糞以外のはあんたでしょ〜!」
「ストップ!これ以上の喧嘩は許しません!梟ちゃん、薬、置いておくから。食後に一包みごと飲むこと!帰るよ、斎!」
「はぁ!?俺はこのメスガキに明の涙分を反省させないと……」
「いい加減にしなさい。そうじゃないと自分を貶めることになるわよ。斎なら分かるでしょ」
「……チッ」
「ごめんね、梟ちゃん。斎ったら怒りっぽいの。……せいぜい安静にしていなさい」
そう言って、優香と斎は去っていった。斎は最後まで此方を睨んで来たが、私も睨み返してやった。
知らない。明の都合も、涙も、私には関係ない。明の金しか興味はない。体の関係すらない。させる気もない。明は私には金品は何も与えてこなかった。だから今年のクリスマスが最後にするつもりだった。なのに、
「なんで、こんな展開になっているのかなぁ〜……」
その時、メールの着信音が響いた。今帰るよ、という明からのメール。
それを見て私は決意した。
……帰ろう、自分の家に。

恋と風邪の見分け方

明が出て行ってからだいたい五分後。眠れと言われてもこんな昼間では眠気が訪れることはなく、私はただ寝転がっていることにも飽きて、仰向けに転がったままスマートフォンを取り出す。
予定では明との時間は終わっていて、その他の男の金で豪勢なクリスマスを過ごす予定だったのに、風邪で体は重く、縫いつけられたように起き上がる事も出来ない。
「あ〜あ、新しい財布欲しかったのにな〜……コホッ、ゲホッゴホッ」
それでも私はまだ楽観的でいた。プレゼントは今日しかもらえない決まりなんてないし、その気になれば贅沢なんていつでも出来る気でいた。
誰もそれを咎めない。
女子には陰口を叩かれるし、捨てた男に恨まれることは両手の指でも足りないほど。
でも、女子なんて気にしなければいないのと同じだし、男なんて地球上には山ほどいる。
だから、デートキャンセルのメールには心は籠もっていなかったし、風邪を心配するメールは無視した。
その後にやっと本当の暇が出来て、随分温くなったタオルをひっくり返すと、私は視界がゆるゆると揺れている事に気が付いた。
もしかして熱が上がったのだろうか。しかしそれを確かめる方法はなく(明が体温計をどこかにしまったから)、痛む喉に精一杯の力で体を起こし、ピッチャーの水をコップに移して飲み干す。
背中を滑る汗が気持ち悪い。汗をかく程体は熱を発しているのに、奥歯が当たってガチガチと音がするほど寒さに震えて。
私は布団を被って、ただ耐えた。
耐えて耐えて耐えて、時間感覚も寒ささえも分からなくなってきた頃、ガチャリと鍵が開く音がした。
「あ、きら……?」
ボーっとする頭で、この部屋の主を呼ぶ。
しかし、何かがおかしいと、すぐに分かった。明のゴツいブーツだけではなく、カツンカツンと、ハイヒールを脱ぐような音がしたからだ。
「ごめんな、予定変えちゃって。優香」
ゆうか……誰?
「いいのよ、あっくんっ。どうせあっくんの為に時間あけてたんだし」
何この気色悪いまでキャピキャピした声。あとあっくんって何。
「優香は優しいな」
「今お熱な小娘と違って?」
「んー、反論出来ないのが悲しい。優香、今度時間あけて」
「いいわよ、私に全部吐き出せば」
この女……誰?明の何?
「ありがと。俺、やっぱり優香がいないと駄目になる」
え?
「やだ嬉しい!あっくん大好きちゅっちゅー!」
「はいはい、梟さん起きるから静かに」
「静かにならいいの?」
「え?あ、いや、その……」
なんですぐに否定しないの、明。
「……少し、だけだぞ」
「んふ、ノリのいいあっくんは嫌いじゃないわ」
え、嘘。
ちゅ、くちゅ、とリップノイズが響いてくる。
ガサリゴトリと何かを落とすような音がして、布ずれの音がして、私は思わず起き上がる。
僅かに水気を残したタオルはぽとりと床に落ちて、でも体は言うことを聞いてくれなくて、何度となくベッドに逆戻りして、でも今まで感じたことがないくらい悲しくて悔しくて、私は根性でドアまで歩き、豪快に開けた。
「明!」
「ひゃっ!?」
「っ!?」
「……は?」
私の目の前で、バッと身を離したのは見知らぬ女と……これまた見知らぬ男だった。
男の方は一瞬だけばつの悪そうな顔をしたが、次の瞬間には意地悪そうにニヤリと笑った。
「明だと思ったか?」
そう言った男の声は、先程聞いた明と聞き間違えようのない声で、私は固まる。て言うか、
「あ、んた、誰」
「看護士」
「は?」
「特技は声真似だ、覚えておけ性悪娘」
「はぁ!?」
声真似って……まさかさっきまでの全部声真似?焦った私は一体何?
「はぁ……あっくんの真似しようって言われた時はびっくりしたわぁ……。駄目よ斎、こーんな可愛い子苛めたら!」
「どの口がそれを言うんだ」
自分だけ悪者扱いするな、と斎と呼ばれた男が言うと、優香(?)はブルネットの髪をふわりと揺らして笑った。
「女の特権は?」
「……嘘と変わり身」
「正解!」
優香はそう言うと、私に抱きついてきた。嫌みのない清々しい薔薇の香りが鼻梁を擽るが、私には怒りしか湧き上がらない。
「……説明、してくれる〜?」

恋と風邪の見分け方

ピピピッ
嫌みに聞こえるほど軽快な電子音に、私は心の中で溜め息を吐く。
実際に吐けたらどれだけ気分が軽くなるだろう。しかし、温度計をくわえている私にそれは叶わなかった。
「んー、と。三十八度五分。……って、結構熱あるじゃん!」
「へ〜き〜……」
「平気なわけないだろ……梟さん、こんな時まで意地張らなくてもいいじゃん」
「て言うかさ〜、なんで温度計口にくわえさせられないといけないの〜?普通脇ではかるんじゃ……けほ、ないの〜?」
「咳もあり、ね。ん?なんで口かって?脇だと脂肪の多さで誤差出るから。梟さん細身だけどさ、結構胸あるじゃん?だから誤差を計るのは面倒だから。本当は直腸用の買ってやるか……もしくは口か、ってなったら口じゃん?」
甲斐甲斐しくアルコールティッシュで体温計の細くなっている部分を拭い、犬はペタリとその大きな手のひらで私のおでこを撫でた。冷たくて気持ちがいい。
「うわ、本当に熱いや。ちょっと待っててね、タオル持ってくるから。あ、氷枕の方がいいかな……」
「そんな大袈裟な……」
そう言って立ち上がろうとすれば、体の重心だけが僅かに遅れてついて来るような感覚がして、ぐらりと倒れかかった。犬が素早く抱き留めてくれたおかげで、床に転がるようなことはなかったのだが。
「はー、なんで梟さん強情なんだよ……。何、安田に岡村に松尾に佐々木とのデートがそんなに大切?」
「な、んで……げほ、全員の名前を……?」
そう疑問を投げかけると、犬は尻ポケットからスマートフォンを取り出し、アドレス一覧を此方に向けてきた。
その画面に並ぶ名前の数々は、私を戦慄させた。
「なんで、クラス全員のアドレスがあるのよ……」
「んー?お店に来た子から広めていった感じ?」
「わ〜、悪趣味〜……」
「残念ながら、俺もう学生じゃないし?梟さんのこと知るのにこれが一番かなーって。はい、ベッドで寝ていようなー?」
「え、ちょ……!」
抵抗する暇も与えられず、犬に横抱き……一般的に言えばお姫様抱っこをされる。犬の胸に手を突っ張って抵抗を試みるものの、犬の体は力強く、私の腕は普段の数割程しか力を発揮してくれず、結局犬のベッドへ優しく横たえられた。
犬はそのままテキパキと私の服の第二ボタンまでをくつろげ、袖のボタンを外し、柔らかな毛布と布団を首までかけられる。
最後にポンポン、と頭を撫でられ、私はただ眉をひそめる。
首もとのボタンは呼吸を妨げていて苦しかったし、異様な程寒気を感じて震えていたから。
熱のせいだ、と頭では理解していたものの、犬の言うとおり強情な私はそれを言い出せないでいたのに。
「なんで分かるのかな〜」
隣接したキッチンに消えた犬の方を見ながら、私は小さく呟いた。
犬は程なくして此方の部屋に戻ってきた。銀色のボールと小さなタオルを持って。犬はそれをベットボードに置いた。
ボールからはカランカランと鈍い音がしているので、中身は氷水だろう。犬は躊躇い無くタオルを氷水に浸し、何度か泳がせると、ぎゅっと絞り、濡れたタオルを私の額に乗せた。
それはとても冷たく、乗せられた瞬間は体がビクリとしたが、それはすぐに過ぎ去り、心地いい冷たさに息をほうと吐く。
犬はそれを見届けると、すぐに部屋の暖房を強め、何か変な丸い物体をベッドの近くに置いた。
「……?」
「ん?ああ、これ?加湿器。喉つらいだろ、近くにあった方がいいかなーって」
コンセントに繋がれたそれは、淡い光を発しながら静かに蒸気を吐き出す。色は暖系色の色をグラデーションで発していて、目にも楽しい。
「女、みた、な……かし、き……」
「女みたいなって。まあそう言われればそうだけど。雑貨屋さんで一目惚れしたんだ。アロマオイルも入れられるけど、何の匂いがいい?」
「いらない……」
「ん、そう?」
犬はあっさりと引き下がった。引き下がらなかったら私は困っていただろう。ベッドから香る犬の匂いが、予想外にも心地よかった、なんて口が裂けても言えない。
「んで、ベットボードにピッチャーとコップ。レモン数滴絞ったから美味しいと思うよ。ビタミンとらないとだし」
そう言いながら犬は上着を着始めた。黒いコートにはファーがついていて、犬がよく着ているものだった。
「……どこか行くの〜?」
「うん。えーっと、財布財布」
「あき……」
「帰ってくるまで寝てて良いからね、梟さん。て言うか寝てて」
「え……」
「何かあったらメールしてね。じゃあ」
「あき、ら……」
明は私の言葉が届いたのか届いていなかったのか、踵を返して部屋から出て行った。
ガチャン、とアパートの鍵が閉まる音が、嫌に重く耳に届いた。










続きます。

空木が咲く前に 三十八

ピロロロローと、どこかで鳥の鳴く音がした。音源を耳で探ると、距離は近い。もしかしたら部屋のすぐ外で鳴いているのかもしれないと思いながら寝返りをうつ。すると、腰の当たりに冷たい物が当たり、……まさかこの年にもなって粗相をしたのかと、眠気眼のまま起き上がろうとすると、隣で寝ていたのだろう月丸にその力強い腕で寝床へ戻された。
「つ、月丸……?」
「ん……?なんだ、何かあったのか?」
「えーっとね……ちょ、ちょーっと離してもらえない、かな?」
「……?」
下手に出つつ『お伺い』をすると、月丸は一瞬だけ怪訝な顔をしてから、
「俺では物足りなかったから別の男の所へ行くのか?」
と眉を斜めにしながら怒ったような顔で問いかけた。
「へ?」
その問い掛けは真実私の心のどこを探しても無いものだったので、私の頭の中には疑問しかなかった。
「達していた、のは演技だったのか?」
「いやいやいやいや。月丸何を言ってるの?外が明るくなるまでずっと離してくれなかった月丸がそれを言うの?」
ピィィイィイィイイ!
鳥語は分からないけど、怒ったような鳴き声だ。そう思いつつ、そんな事は私に関係ないので言葉を続けた。
「私限界、って言ったよね?体ビクビクして、月丸が突き上げてくる度に意識飛びそうになって、結局意識飛んだよね?今まで寝てたんじゃなくて気絶してたんだよ?気絶。分かる?」
怒り狂うような鳥語を無視して、私は言ってやった。やってやりましたよ。一回目は痛くて違和感ばっかりで気持ち悪くてでも月丸だから、って我慢してた。二回目はゾクゾクしてこれが気持ちいいんだなーって思ったけど、それも度が過ぎれば拷問だった。と言うか私が『多分気持ちいい』場所は月丸の二回目からは通り過ぎてて。
正直に言います。昨晩のはいい情事ではない。経験なくても分かる
色んな意味で顔を赤くさせる私に、月丸は「スマナカッタ」と圧倒されたように首をカクカクさせ、漸く腕の力を弱めた。
「あの、しのぶ……では何故逃げようとしたのだ……?」
「へぇっ!?え、あの、だって、それ、は……」
「……それは?」
察して!
……と言えられれば良かったのだが、粗相なんて察されても困る。
なので口ごもっていると、気を抜いた瞬間にどろりと粘り気がある何かが私の下から出てきた。
「っ……!?」
それは快感を伴って私の服へ滴り落ち、そのまま服を汚す。びくりと力を込めると、それは逆流しようとして、余計に私は身体をビクビクさせて。そろりと着物を探ると、それは白くて変な匂いがするものだった。
「なに、これ?」
「っ……、」
今度は月丸が顔を赤くさせる番だった。
でも意味が分からない私は、嫌な予感が頭をよぎった。
「つ、月丸……。どうしよう、私病気になったのかな?こんなの、私見たことない……っ!これ、私の中から出てきて……あ、どうしよう、月丸にも病気移した!?え、あれ、どうしよう月丸!」
ぴょ、ぴよろ……ピィ!
鳥が変な鳴き方している。……じゃなくて、どうしよう。どうすればいいんだろう。月丸は答えてくれないし、月丸も知らない病気!?
「わ、わたし、わた、わ、わたし!宿木さんに聞いてくるね!」
「ま、まままま待てしのぶ!後生だから待ってくれ!」
「だって!私だけならともかく、月丸にも移していたら駄目だもん!ええい、その手を離して!」
「待ってくれ!それはただの精液だ!」
ピロロロロー……ピッ
「……せい、えき?」
「男が達した時に分泌される液体だ。それが出てきただけだ。だから早まるな」
「えと……この白くて変な匂いのする物が?」
「そうだ。だから落ち着こう。な、頼む」
「そ、そうだったんだー……」
そう言いながら、私は誤魔化すように着物を正す。え、男の人はこんな物を出すのかとびっくりしながら。
「あ、しのぶ。着物を正すな」
「へ?」
「その……人づてに聞いた話だから正しいのかは分からないが、一応処理しないと……だから、その、……足を開け」
「うん。……え?」
ピロロロロー……
最後の鳥の鳴き声は、どこかため息にも聞こえた。
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