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空木が咲く前に 四十六

シュルリシュルリと音がする。仕立てのいい着物の布ずれの音だ。私は微睡みの中それをぼんやりと聞いていた。

私は何をしていたんだっけ。ああ、そうだ。やどちゃんと小部屋に移って鞠付きして、竹トンボ飛ばして、あやとりして、隠れん坊して、兎に角いろんな遊びをして、疲れたやどちゃんの隣で一緒に寝てしまったのだ。途中に暮麻さんが布団を掛けてくれたのはぼんやりと覚えているが、その先の記憶がぽっかりとないので、やはり子供のように遊び疲れて寝てしまったのだろう。忍びにあるまじき爆睡だ。

ゆるゆると瞼を開ければ、まだ薄暗い時間だった。昨日の太陽と月明かりで曇りということはあるまい。

「どうしたの……起きたの、やどちゃん……?」

寝起きの掠れた声で言いながら起き上がると、やどちゃんは着替え途中のようだった。

「っ……!?」

やどちゃん……いや、宿木さんはハッと息を詰め、何かに怯えるように衣を掻き合わせた。

「え」

それは一瞬の事だったが、鍛えた動体視力によってどうして宿木さんが衣を掻き合わせたのか理解した。理解してしまった。

それはとても古いものだったが、加虐性の限りを尽くした傷跡の数々。どうやったらそこまで身体を傷付けられるのか、それすら分からない程のミミズ腫れ。身体を自由に動かせているのが分からない程の傷、傷、傷。

「や、宿木さん……それ……」

そう口にすると、宿木さんは一瞬だけ辛そうな顔をしたが、それは本当に一瞬だけで。柔らかそうな笑顔で囁いた。

「どうしたんですか?悪い夢でも見たのですか?それとも悪い妖?」

「……」

はぐらかされている。それだけは分かった。厳密に言うなら、もう一つだけ分かった。宿木さんは私が見た物を見なかったことにして欲しいということだ。

「……うん、悪い夢を見ちゃった。宿木さんが傷だらけになる夢を。……痛くないよね、宿木さん。もう痛くないよね」

旗から見たら素っ頓狂な言葉だろうが、私はこの問い掛けが間違っているとは思うことはなかった。

それだけでいいのだ。私が聞きたいことは聞いている。

宿木さんは数瞬思案するような顔を少しだけ見せると、痛みをこらえるような顔で、それでも柔らかな笑みを浮かべた。

「怖い夢でしたようね。ええ、私はどこも痛くありませんよ。夢の中で私はそうだったのかもしれませんが、今はどこも。だから……泣かないで下さい、しのぶさん」

「だって……」

はらはらと、ぼたぼたと、涙は流れる。

あれだけの傷を受けながら、優しく笑える宿木さんが、痛ましくて仕方なかった。

痛くないのは本当かも知れないし、優しい嘘なのかもしれない。だけど、涙が流れて仕方ないのだ。

宿木さんは困ったような顔をして、私の頭を抱いた。あやすように頭を撫でながら。

「や、宿木……さん、は……大人過ぎるよ……っ」

「おやおや、昨日はあんなに子供のように遊びあったのに。……はい、貴女が恐らく今考えていることは合っています。だから、ですよ。私は大人で居なければならない」

今考えていること。それは、宿木さんが誰よりも大人なのは、一番傷付いたから。でも、人はそこまで強く作られて居ない。だからこそ、無邪気に笑う子供のやどちゃんがいるのだ。居なければ、壊れてしまうから。大人と子供の二極化によって、宿木さんは不安定ながらも保たれているのだ。

「大人って……つらいね」

「子供も辛いですよ。感受性が強いですからね。あんまり泣くと干からびてしまいますよ?」

優しくあやされて、私はゆっくりと瞬きする。それと一緒に溜まっていた涙も一緒にボロリと落ちて、一瞬だけ視界が鮮明になった。そこには、何度も傷付けられて、異形にも思える程デコボコした傷跡が、着物の間から垣間見れた。

ああ、なんて悲しい。悲しい程に強い。

ぐいと涙を拭って、私はやどちゃんの頭をさらりと撫でて笑った。

「いいこ、いいこだね。……と、私、厠に行ってくるね」

その間に、宿木さんの秘密は仕舞っておいて。

言外にそう告ると、私は宿木さんに背を向けて、半ば逃げるように部屋を出た。まだ当分、大人になれないや、と悔し涙を流しながら。

空木が咲く前に 四十五

最後の宿木さんという爆弾で忘れそうになったが、お城で藩主様に謁見してから、妙に穏やかに一日が過ぎた。

その間に、使ったあの派手な衣装を洗って干して畳んで、足りない物をできるだけ安く、尚且つ品質を見極めながら買い足し、それが終わると誰からと言わず大部屋に集まり、暮麻さんが淹れた美味しいお茶を片手に穏やかに談笑した。表面上は。

「くれちゃんー。お茶飲んだらあまあま食べたくなったー」

くってりと無作法に、いつもからは思いもつかない体勢……簡単に言うと、楽な着物を着て体をうつ伏せにして肘をつくという体勢で宿木さんは足をパタパタさせていた。

「応。明、何か有り合わせはないか?」

暮麻さんは大して動じず、寧ろ自然な動作で明さんに視線を投げかけた。

「んー、ここ、庶民向けの菓子屋なくてなー。多分あったんだけど潰れたんだろうな。みんなお菓子も好きだけどご飯の方が大事っぽいし。敷居高そうな店はあったけど、あそこ値段と質があってなかったからなし。ってことで持ってきた干菓子しかないけどいい?」

明さんは自然を演じているが、目線が少し泳いでいる。その気持ちはよく分かる。爆弾の導火線はどの程度の長さなのか分からないからだ。

明さんがそう言うと、宿木さんは幼子のようにぷくーっと頬を膨らませた。

「干菓子ちゃんはあまあまですーってするけど、お茶がもっと欲しくなるのー!」

「分かった。今の時間なら……ふむ、いいだろう。もう一杯いれるからそれで我慢してくれないか、やどちゃん」

「やどちゃん!?」

さらりと暮麻さんから零れた言葉に思わず首をグルンと回し叫ぶように疑問をぶつけた。

「今宿木さんのこと、やどちゃんって言った?やどちゃん?私の聞き間違い?」

「いや、聞き間違いではないぞ」

そう暮麻さんは言うと、少し膝を折ったまま移動し、ぴったりと横に座ると、母親が子にするように頭を撫で始めた。宿木さんはゆるりと目を細めてその行為を受け入れながら、干菓子を口に含む。本当に母子のようだった。

「私が柔軟性を欠いているせいか、同じ人とは思えなくてな。だからやどちゃんと呼ばせてもらっている。ああ、勿論許可は得ている」

この状況を何でもないと言わんばかりの暮麻さんの態度に、私はそっと心の中で賞賛した。心の持ちようでこうも受け取り方が違えるのかと。余裕さえ持っていれば、何事にも対処出来るという生きた参考が目の前にあって、少し羨ましく思う。

私は、こうはなれる気がしない、と心から思う。

「どうしたんだ?」

「何でもないよ、月丸。……ううん、何でもなくない。暮麻さんが羨ましいな、って」

「私が?」

暮麻さんは心の底から驚いたような顔で此方を見た。

「うん。何事にもテキパキしてて、動じなくて、寧ろ適応していて。そういうとこいいな、って思うけど、でも自分はそうはなれないだろうなー、ってちょっと落ち込んじゃった。でもそれだけなの」

「しのぶ。それだけ、ではないだろう?」

優しい顔で、少し案ずるような顔で、月丸はそう言いながら頭を撫でてくれた。

それはとても心地いいことで、安らぐことなんだけど、それだけを受け入れるには、私の器は小さい。私の器は、不安でとっくのとうに埋め尽くされているから。

「んふ〜……」

梟さんは、当然のように明さんに膝枕をしてもらっていて、今までは我関せずといったようにゴロゴロしていたのだけれど、厭らしく笑うと、ごろりと此方を向いた。

「しのぶちゃんはまた暗くなってるの〜?多いよね〜、それ〜?」

「……そんなこと」

「あるよ〜」

完全には否定できない。

此方に来てからというもの、俯いていることが多いのは、自分でも実感している。宿町で少し気分は良くなったものの、それからまた落ち込んでいるのは、自分が一番よく知っていた。

「ある、ね。うん。ある。どうしようもない位ある。ごめんね、なんか、上手く言えないけど、ごめんね」

今の私には、そう言うことが精一杯だった。

頭は訳がわからない程ごちゃごちゃしてて、感情は自分の手に負えない場所にある。その感情の名前は知らないけど、誰かに当たりたい程むしゃくしゃするし、泣きたい程苦しい時もある。

ただ、正しくありたいだけなのに。

俯く私に、クスリと笑うのが聞こえて、思わずカッと頭に血が上る。

「何が面白いの」

反射的に頭を上げると、笑っていたのは暮麻さんと明さんで。思わぬ人物に怒りで涙が滲んだ。

「悪い悪い。でも、なー、姉御」

「なぁ、明」

そして二人は顔を見合わせてクスクスと笑って。

笑って。

私はブツリと何かが切れるような音が聞こえた。

「何が面白いの!?そりゃあ私はどうしようもない位子供だし、馬鹿だし、愚図だけど!笑われる程悪いの!?何で、何で笑うの!?」

喉が擦り切れるくらい叫んで、隣の月丸は目をまん丸にしていて、なのに二人はまだ笑っていた。

「なあ、しのぶちゃん。そうなったのは最近でしょ?」

「そうだよ!だけどそれが何なの!?」

明さんは笑うのをやめて、優しげな顔で目を細めた。

「だったら嬉しい」

「え?」

「全部が俺たちのせいじゃない、ってのは分かってるけど、やっぱ嬉しいよな、姉御」

そうやってしたり顔で明さんは暮麻さんに目線をやると、暮麻さんは明さんと同じような顔をして言った。

「口下手だから上手く伝わらなかったらすまない。だが、伝わらなかったら私は伝わるまでしのぶに何度も伝えよう。きっと、すぐには馴染まないだろうから」

「暮麻。すまないが、話が見えない」

「ああ、すまない月丸殿。どう伝えたものか……えっとな、思春期、と言う言葉を知っているか?」

「思春期?」

私と月丸の言葉が重なる。

それが面白いのか、暮麻さんは言葉を選ぶようにしながらも、微笑みながら言った。

「子供が、体と心の成長をする時に、怒ったり悲しんだりすること……でいいんだよな、明」

「しーさんから聞いたのが合っているならそうだよ」

「そうか。っと、つまりな、しのぶ。お前は大人になりつつあるんだ」

「おと、な……?」

その言葉があまりにも自分にそぐわなくて、私はパチクリと大きく瞬きをした。

「え、私が、大人に……?」

「何をそんなに驚いているんだ?人として当たり前の成長だろう?」

「成長……」

口の中で何度かその単語を繰り返す。

大人。成長。

何故か自分には遠いと思っていたことが起こっているらしくて、私は正直に思ったことを口に出した。

「私が、大人?」

「ああ。まだ半分だけだけどな」

「大人……。え、あれ、でも、じゃあ何で暮麻さんと明さんは嬉しそうなの?」

そう尋ねると、明さんは懐かしそうな顔を一瞬して、思い出をなぞるように言った。
「俺も姉御もさ、思春期遅かったんだよ。しのぶちゃんより、もっとな」

「え!?」

思わぬ言葉が更に出て来て、私は驚きの連続だった。

「つまり、大人になるのが遅かった……?」

「うん。俺は賊に、姉御は組織にずっといてさ。大人でいることを強いられていた。本当は、誰よりも子供だったのにさ。だから、ずっと思春期ってのが来なかった」

「だが、店主に命ごと全部拾われて、生まれ直した……と言うのは言い過ぎかも知れないが、子供で居ることを許してくれた。不思議なものだが、人は誰かに許されないと自由でいられないかも知れない。っと、話が逸れたな」

「で、俺と姉御は子供からやり直して、大人になったんだよ。で、簡単に言うと、俺たちに会ってから環境がちょっと変化したからかな?しのぶちゃんに思春期が訪れて、嬉しいんだ。自分のせい、ってのはいい方向だと嬉しいからな」

何を言っているのか。単語は分かるけど、文字として頭に入ってこなくて。私はあんぐりと口を開けて、クスクスと笑いあう二人を見た。

分かったのは一つだけ。私が大人になっている、と言うのはあまりにも実感がわかないが、穏やかに話している二人が、本当に大人だったということが、当たり前のことだったのに今更実感できて。傷を傷と嘆くのではなく、古傷として認めている寛容さに驚いた。

「そっか……」

それが、きっと、大人と言うことなのだろう。

そう考えると、子ども扱いされて、庇護を受けていたことに対して怒りを覚えていたことが馬鹿らしく思えた。年はそう離れていなくても、この二人は確実に何かを受け入れているから。他の皆も、きっとそうなのだろう。

「思春期に入ったからって、いきなり大人ぶることはない」

暮麻さんが易しく言う。

「そうそう。まだしのぶちゃんは半分子供なんだし?まあ、思春期過ぎても子供な人もたくさんいるしね」

「そうだよ〜。明だってまだまだ子供だし〜?」

「ちょ、いい感じに大人ぶっているんだから邪魔しないでよ梟さんー!」

へにゃっと情けなく顔を歪ませる明さんに、どこか子供の感じが見て取れて。

大人でなくていいのだ。子供でなくてもいいのだ。そして、どちらであってもいいのだ。ここには、誰もどちらであることを強要なんかしない。それを実体として見せてくれる人がいる。今はそれだけを分かっていればいい。

ストンと胸の中に落ちたその感情に、私はクスクスと笑った。その表情を見て、皆が笑った。月丸は、少し複雑そうな顔をして笑ってはくれなかったけれど、それでも私の心は軽かった。




「で、この子供はどうすればいいの、暮麻さん」

「んー?」

「ああ、やどちゃんか。危害を与えなければそれでいい。思う存分子ども扱いしてやってくれ」

「あそぼ、しのちゃん!」

「う、うん!」
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