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「消えてしまいたい」
誰に言うでもなく口に出したその言葉に返答する者はいなかった。それは不幸中の幸いだったのかもしれない。手のひらに吐き出した白濁を乱雑に懐紙でふき取り、厠の穴に放り込んだ。
「詐欺だ。最悪だ。畜生、なんで明なんかで……」
肺一杯に吸い込んだ空気を吐き出すと、俺は乱れた着物を直し、呉服屋の裏庭にある小さな井戸で手を洗う。空はとっくに暗闇に包まれていて、月の位置で大よその時刻を図り、もう一つ溜息をついた。
時間をかけすぎてしまった。仕方ないことだとは思うが、それでも自責の念に駆られる。平たく言うと俺は今賢者状態なのだ。明の毒牙にかかり掛けた俺は、玄によって隔離された。どうすればいいか、という考えは、熱を持った自身を認識すると、もうしなければいけないことは一つしかなかったのだ。
汲み上げた井戸水を手拭いに含ませ、汗ばんだ体を軽く拭く。汗をかいている状態だと気取られる可能性が高いという建前で、僅かに残った明の香りを振りほどく、という自衛だった。
「−−六三四にどんな顔で会えばいいのだろうか」
その言葉にも、返してくれる人はいなかった。否、いなくてよかったのだ。自分だけで解決するべき事柄なのだから。
固く絞った手拭いを首に巻き、俺は再び明と玄のいる部屋に戻っていった。始めない限り、終わることは何もないのだから。
「待たせてしまい申し訳ない。では話の続きを……」
そう言いながら障子を開けると同時に、明はぱっと明るい顔で此方に振り向いた。
「あ、五六四さん! おかえりなさい!」
ぶんぶんと、犬の尻尾が見えてきそうな様子の明に、何よりも先に嫌悪感が生まれた。
「……こんなので」
「こんなので?」
「なんでもない」
こてりと首をかしげる明に、俺は眉を顰めながら視線を外した。敢えて言うならば、男の矜持が許せなかった。
俺は小さく溜息をつき、視線を玄に移す。
「それで、ええと、男娼の話だったな。基準、あるんだろう?」
そう尋ねる俺に、玄は困ったお人だ、と眉を下げた。
「明に聞きましたよ、耳の人、なんでしょう? ならはぐらかすのは得策ではないでしょうねえ。−−子供、ですよ。子供。少年とでも言うべきでしょうかねえ。雪定様はそういう奴にご執心ですよ、はい」
「うげ……」
玄の言葉に、明は大きく顔をしかめた。自分の経験から来るせいなのだろうか。
「少年愛、か。だったら俺たちがいくら着飾っても……いや、俺は着飾っても意味はないかもしれないな」
「ねえ五六四さん。なんで言い換えたの。五六四さんも可愛いよ?」
「世辞は止せ。と言うか自画自賛か?」
「自分の事は自分がよく知ってるからなあ」
ほら、俺好かれそうな感じだろう? そう言いながら明はにやりと笑った。その中にアキレアを含ませたのは、俺への当てつけなのだろうか。
俺は今日何回目になるのか分からない溜息をつくと、明の背中をバシッと叩いた。
「っい! え、何、五六四さん怒ってる?」
「怒らない、と思っているならお前は俺を買いかぶり過ぎだ。怒っているぞ、凄く。ああ、とても怒っている」
敢えて淡々と、目を合わせながらそう告げると、明はぎょっとした様子で目に見えて顔を青くした。
そんな明に少しだけの優越感を感じながら、半眼にしたまま、それで、と玄に顔を向ける。
「そんな少年愛好者な雪定様に、俺たちを何と言って売る気だ?」
「ふ、くく。面白いお方で。いや何、少年たちの初物も、もう少なくなってきましたからね、指導役として売り込もうかと。門前払いされたらそれはその時ですよ」
「指導役……まて、それではまるで」
嫌な予感をそのまま口に出すと、玄は少し困ったような顔をして、頬をかいた。
「はい、そうですよ。あなた様の考えている通りで。……私も、嫌なのですがね。帰ってきた様子はないのですよ。かと言って死体が上がっているわけでもなし。そうなると、考える事は一つしかないでしょう」
「……大よその数は?」
「私どもの所からは十程度。しかしそれだけ、とも言い切れませんねえ」
「なにそれ怖いんだけど。囲い込んで帰していない? ってことはまんま身売りじゃんか」
「まあ、そうなりますね。という事で、とびっきりの指導、やってきて下せえ」
のんびりとした玄の口調に、俺と明は目を合わせ、同時に溜息を吐いた。顔色は両者共に悪く、これからの事を思えば、偏に面倒くさいと感じた。何故俺が色事の任務に当たったのだろうか。六三四がこの仕事に当たる事より何倍もマシだが、それでも気乗りはしない。明は俺以上にそう感じているのか、虚ろな目でぶつぶつと何事かを呟いていた。
「さあさあ、せっかくおめかししたんですからねえ、行やしょうや、少年たちの花園に」
そう言いながら俺たちの背を押す玄だけが、何故か生き生きとしていて、心底鬱陶しかった。商人という者は、皆こうなのだろうか。そう考えながら、俺たちは夜の街を歩いた。
髪に椿油を塗り、女性風の髷を作り、そこに櫛を指す。緑のトンボ玉が飾られている簪を二つ刺し、肌には白粉を、唇には紅を引く。最後は目尻に隈を入れ、手伝っていた俺は頭を抱えた。
「ん?」
朝顔のように慎ましやかに笑む目の前の『男』は控えめに言って大柄な女性にしか見えなくなっていて、俺はうめき声を上げることしか出来なくなっていた。
「ほっほ、相変わらず狐のように化けなさる。いやあ、いい金で売れそうですなあ」
そう厭らしく笑う玄の腹を思いっきり殴打したい気持ちを抑えて、畳を殴った。アキレアが進化した、どうしてくれる、という気持ちを存分に込めて。
明は、丸っきり女に見えるわけではなかった。しかし、首のしなりは女性的な雰囲気で、それでも男の太さで喉ぼとけはしっかりとあり。手のゴツゴツとした形は女性的ではなく、しかしゆったりと力を抜いている柔らかさは男性的ではなく。背中のしなりは男性的ではなく、肩幅と胸板の平坦さは女性的ではなく。つまり何が言いたいかと問われると、男性と女性の丁度中間ではない中性的な存在であるとしか言えない。
男性らしさと女性らしさの両方がいい塩梅で共存しており、しかしどちらかと言えば男性で、男娼としては及第点を優に超えていた。
ちらちらと目線をやる度に、俺は頬に熱が上がっていっている感覚を覚えた。男が好きなわけではない。だが女ではいけないというわけでもない。今までは六三四だけに覚えていた劣情が、この明を目にしては浮かぶ。そんな俺に対し、明は赤い唇をぷっくりと突き出し、眉を下げて不服そうな顔をした。
「そりゃあ両方ともお仕事だから仕方ないところはあるけど、やっぱり無理があるんじゃないかなあ」
「無理?何がだ」
冷静に努めようとするが、声が少し裏返ってしまった。そんな俺に明は扇のような睫毛を少し震わせただけで、特に何も返さず言葉を続けた。
「いや、五六四さんの方が線細いし。俺が叩き込まれたのは所作だけなんだけど」
「……やめておく。お前に勝てる気がしない」
それは心からの言葉だった。ああ、確かに俺も男娼として叩き込まれているところもある。忍びとして、それは礼儀作法を叩き込まれるのと同じようなものだ。だが、ここまで劣情を掻き立てるような、無防備な姿になれる自信はとんとなかった。
「えー?出来るってー。こう、ぐりっと肩甲骨を引き寄せて、内臓の位置が変わりそうなくらい背中をしならせて、人差し指をプルプルしそうなくらい独立させてー、それから」
「益々やりたくなくなるな、それ」
女性らしさの為にそこまでする気はない、ときっぱり言うと、明はまあいいか、と唇の形を元に戻した。
「女みたいな男をご所望かどうか分からないしな。両方揃えておけばどっちか当たるでしょ。なあ玄さん。雪定さんはどっちが好みとか分かるの?」
「さあ」
のほほんと商人の顔で三つ顔の玄はそう言った。
「……どういうことだ?」
「私どもとしても分からないものは分からないのですよ。分かっていれば選別の為にもう少し料金割り増しに出来るのですがねえ」
のっぺらい顔だ。商人の、手の内を見せないのっぺらい顔だ。玄は嘘はついていない。しかし隠している事はありそうだとすぐに分かった。
「じゃあ聞くが、今まで売った男娼はどんな奴だったんだ」
そう尋ねると玄は眉を八の字にしてぽりぽりと頬を掻いた。
「えー、まあここだけの話、と言ってもありきたりですがねえ、身寄りのなく金のない男を適当に勧誘していたので、特徴は様々でしたねえ」
「嘘だ」
「−−本当ですよ。赤、この御仁に何かしましたかい?店に来たばかりの時とは丸で違う」
商人の顔の中に殺し屋の目だけを入れた玄は、じっとりと明を睨んだ。だが、それがさっきの言葉に含みがあるという事を裏付けていた。明はふんわりと笑いながら、同じことをしただけだよ、と返した。
「同じこと?」
「うん、同じこと。玄さんが木蓮に誘われたとき、誰かにされたこと。五六四さんは、それが芽吹いたんだ」
「……芽吹く?」
俺はそう聞き返したが、玄は違った。一瞬で顔から血の気が引き、信じられないというむき出しの感情で此方を見やった。
「ああ、説明も何もしていなかったか。五六四さんにはさっき言ったよね、修羅場をくぐってきた人には五六四さんみたいな人が出てくる、って。でも誰でも出てくる訳じゃないんだ。梟さんも、資質はあるんだろうけどまだ芽吹かなかった。……ううん、芽吹かないほうがいいのかもしれないけど」
それは、明の独白に聞こえた。悼み、悲しみ、それでいて喜んでいるように感じる。いや、喜ぶなんて生易しいものではない。狂喜、とも言えるかもしれない。それだけ明の目は爛々と輝いていた。
「五六四さん、本当に欲しいなあ。木蓮に欲しい。玄さん、これは喜ばしい事、そうだろう?そうでなければならない。五六四さん、何が欲しい?俺たちに出来ることなら何でも用意してみるよ。六三四さんかな?お仕事だけしてくれれば六三四さんと一生優雅に暮らせるよ?おいで、ねえおいでよ」
ずりずりと畳の上を這い寄りながら、明は赤みがかった目で、強請るように俺の胸に頭を預けてきた。床を強請る遊女と同じだ。そう、分かっているのに、明から香るしっとりとした芳香に頭が揺れる。つつ、と指先で着合せの境界をなぞりながら明は視線を合わせてきて、赤茶色の瞳には狂喜があるのに、否、だからこそなのか、俺は心が揺れた。
この無邪気な笑顔をそのまま咲かせていたい。そんな気持ちと同時に、真っ黒に汚してしまいたいという感情が同時に溢れてきて、明の首裏に手を伸ばした。
温かい。
ゴツゴツとしているが、そうであるからこそ人の肌だと確信が持てる。滑らかであるからこの世のものではないような錯覚を覚える。しっとりとした肌が、まるで俺だけを誘っているかのように吸い付き、手の大きさとぴったり合っていて。
ぐらつく頭を自覚していくほどに、明は豪奢な牡丹の花のように笑顔を咲き誇らせていった。
唇が震える。吸い付きたいと、むしゃぶりつきたいと、本能が大声で叫ぶ。しかし、唇が明の首筋に当たるより早く、俺は玄によって引き倒されていた。
「駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ!それだけは駄目だ!戻れなくなっちまうぞ!」
戻れない。何に。分からない。戻れなくとも構わない。ああ、何故邪魔をするのだろうか。
「こじろーさん」
ゆったりと呼ばれるその名前に、芯が揺れる。何の、と言われれば、心にある折れてはいけない芯だろうか。今はもう、羊羹のように脆く感じる。
「あき、ら……?」
「ああ、くそ、だから赤と仕事するのは嫌なんでい!こじろう!戻ってこい!このまま傀儡になってもいいなら帰ってくるな!」
――帰ってくるな。
そう言われて、殆ど反射的に動きを止めた。自分でも言葉にすることは難しいが、やめろと言われればやりたく成るもので。ハッと我に返ると、明は不貞腐れた顔で玄さんを見ていた。
「なんで邪魔するんだよー!五六四さん引き入れれば木蓮の為になるんだよ!?」
「やり方が極端なんだよ手前は!そんなやり方じゃあ意思のない味噌っかすになることを学べ!」
「味噌っかす……。おい、明……」
非難の眼差しを明に向けると、明はうすら寒い様子でてへっと笑った。
「なあ、玄さん。俺ってそこまでやばかったのか?」
「極上にやばかったですよ。まあ、これで懲りて次は耐えて下せえ」
そう告げる玄の声は、何かを諦めたような声だった。諦めろ、とも聞こえる。
次は、きっとあるのだろう。多分、明が諦めるか、俺が受け入れるまで。
「俺たちの仲間になってよ。ね、こじろーさん」
「……良かったのかなあ。良くなかったよなあ」
誕生日 | 9月14日 |