購読してるblog様見て少し真面目なお話。
人間関係

ワタクシはコミュニケーションが下手くそで、ネットでもリアルでもいつも迷って、後悔して、自己嫌悪して、人間を嫌いになっていってます。
メールや連絡、ブログ更新が途切れるのはだいたいそんな時で、そういう状態の時に言葉をかけられると図にのるというか、甘えが出て依存する傾向にあるんですな。
友人でもこいびとでも。
だからこそ人間関係はできるだけ薄く長く、ワタクシはワタクシの足で立って、誰かがそこにいてくれて、ワタクシの視界で幸せに生きてて欲しい。
でも、その幸せにワタクシはいなくて、くものすみたいに張り巡らした関係の違う線を羨ましげに見ることしかできないわけです。
そんなボッチ野郎なのを前提に。
屑なこと言います。ボッチだからしかたないと多目にみてちょ。

自分が存在する価値を、人間関係に求めることは不毛だと思うのです。
好きな人から拒絶されたから、存在価値がない?拒絶されないことが前提なのか。
その人から好きになってもらえることが前提なのか。むしろその考え羨ましい。
人から嫌われることしかないから、誰かとの関係で自分の存在価値を有するという考えに否定的な、ワタクシ。
じゃあどこに?ワタクシの存在する価値はあるのか?
それはやっぱり誰かの中にある。
だけど、ワタクシがその人を好きだからなのではなく、相思相愛だから、存在価値が出てくると思うのです。
ワタクシにとっていぶきちゃんは必要です。いぶきちゃんもそう言ってくれます。(少なくともこないだまでは)
ワタクシにとってあなたは必要です。
あなたはワタクシを必要としてくれますか?
それを重ねていって、ワタクシの存在価値は繋がっていくのです。

好きになってもらう前に好きになることは大切だけど、好きになってもらう努力をしないで愛されたい傲慢さは、負担になる。
あなたの必要になりたい。
私はあなたが必要だ。
必要は愛に似ていると思うのです。
存在価値を探すなら、あなたが必要だと思う人を思い出してみて、その人にとって必要な人間であろうと努力してみるのも、一興じゃない?
人間関係の中で愛は価値は育まれるけれど、それを育むのは誰でもなくワタクシで、あなたである。